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パンドラに学ぶ不測の事態の楽しみ方

今年行われた RSA Conferece 2008 の集客用に、プログラム委員が持ち回りでITmedia エグゼクティブというところに記事を書いた。その原稿を再掲しておく。

 パンドラの箱 (匣) の話は有名なので、皆さんご存知のことと思う。パンドラが箱を開けてしまったため、その中に詰まっていた様々な邪悪なものが世の中に広まってしまったが、慌てて閉めた箱の底には「希望」だけが残り、我々人間は希望を失わずに生きていくことができるのだ。おおむね、そんな感じのストーリーである。

 僕も元々この程度の内容しか知らなかったのだが、どうもこの話には矛盾があると感じないだろうか。まず、「希望」が箱から出なかったら、人間達は希望を持たずに邪悪なものに囲まれて生きていかなければならないのではないかという点。もう一つは、箱の中には邪悪なものばかりが入っていたはずなのに、なぜそこに「希望」が入っていたのかという点だ。どうもそれが気になって調べてみると、実際はちょっと違うということがわかってきた。

 もう少し詳しいストーリーを書いてみることにしよう。パンドラは、ギリシャ神話でゼウスがヘパイトスに命じて作らせた人類最初の女性である。つまり、パンドラ以前の人間は全員男性だったようだ。パンドラ以前の人間は、やはりゼウスの命を受けてプロメテウスが作った。この時、人間に「火」を与えてはならないと固く言われていたのだが、人間たちを可哀想に思ったプロメテウスはゼウスの言いつけを破って人間に火を与えてしまう。これが有名な「プロメテウスの火」である。

 ゼウスはこれに腹を立てて、人間をこらしめるためにパンドラを作って送り込んだのである。そのため、邪悪なものを詰め込んだ箱を一緒に持たされいた。パンドラは、美しく様々な才能を与えられた完璧な女性で、プロメテウスの弟のエピメテウスはパンドラに惹かれて結婚してしまう。実は、ゼウスの怒りを避けて逃げたプロメテウスは、弟のエピメテウスに「ゼウスからの贈物は絶対に受け取るな」と言い残してあったのだが、弟は兄の忠告を無視する。

 パンドラには「好奇心」も与えられた。エピメテウスとパンドラは、この好奇心に負けて、絶対に開けるなと言われていた箱を開けてしまうのだ。ここからが、誰でもが知っているパンドラの箱のエピソードになる。さて、この時、箱の中に最後に残ったものは、どうも希望ではなかったらしい。諸説あるものの、定説としては残ったのは「未来を予知する力」なのだそうだ。

 なぜ、いつの間にそれが「希望」になってしまったのか。邪な心を植え付けられた人間たちには、様々な不幸が待ち受けている。それらの不幸が起こることが最初からわかっていたとすれば、人間は絶望してしまって、生きる気力など生まれて来ないだろう。未来のことを知ることができないからこそ、人間は希望を失わずに生きていくことができるというわけだ。というわけで、箱の中には最後に希望が残りましたとさ、という方がお話として理解しやすいのでそう広まったらしい。

 面白いのは、未来のことがわからない方が幸せなのだという点だ。不幸な別れが待っている恋人と楽しい時間を過ごせるはずはないだろう。失敗してしまうことがわかっているプロジェクトに真剣に取り組めるはずもない。でもそんな別れが新たな出会いを作り、失敗から素晴らしい何かが生まれるかもしれない。楽しい時間も将来の可能性も失われてしまうとしたら、そっちの方がよっぽど不幸に違いない。

 セキュリティのことを考える時に「不測の事態を防ぐ」とか「不測の事態に備える」とかいう話がよく出てくる。不測の事態を防ぐことができるのなら、それに越したことはないのだが、どんなに周到に準備したとしても不測の事態は必ず起こってしまう。だから、予期しない事態が起こるということを想定した上で、どんなことが起こったとしても柔軟に最善の対応ができるような準備や心がけが大切なのである。

 不測の事態の発生は不幸な出来事だが、これは我々人間に与えられた宿命であって、それを避けることは絶対にできないし、実は未来のことがわからないからこそ、我々は幸せに生きていくことができるのだという風に考えると、少しは慰めになるだろうか。月曜日に出社した途端に大変なトラブルに巻き込まれたとしても、それを予測できなかったことを嘆くのではなく、知らずに週末を楽しく過ごせたことに感謝しよう。

パンドラの匣に残ったものは実は希望ではなく未来を予知する力だったという話は、以前何かの講演の最後にちらっとしたのだが、某編集長が気に入ってくれたらしく「あの話を聞けただけで、今日来た甲斐があった」と言ってくれた。よっぽど他の話はつまらなかったらしい。

この記事の内容は、昨年末に頼まれたセミナーの題材として調べたものだ。その準備をしている時に、ちょうど谷甲州氏の「パンドラ」が文庫化され書店に並んでいたので、何かの縁だと思って内容も知らずに買ってみた。読んでみると、これが実に面白い本格的なハードSFなのだ。渡り鳥の話からはじまり、最後は宇宙規模の壮大な戦いに発展する。一冊400ページ近くの4巻セットだから、ペースが遅い僕としてはなかなか読むのは大変なのだが一気に読み終わった。おすすめである。

パンドラ1 (ハヤカワ文庫JA)

パンドラ1 (ハヤカワ文庫JA)